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アイテム詳細

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
水村 美苗/ 筑摩書房

グループ:Book /ランキング:121
価格:¥ 1,890
発売日:2008-11-05 /通常24時間以内に発送

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日本語で考えることを可能にした歴史的条件とは  (2009-01-08)
たとえば言文一致運動のなかで書かれた口語体の作品よりも、鴎外の文語体の小説のほうが、欧米語に翻訳しやすかったりするのも、村上春樹の作品が多くの外国語に翻訳されているのも、作品の魅力は別にして、翻訳しやすい文章構造であったからに他ならない。

明治の知識人は、圧倒的な「普遍語」としての主要欧米語を何とかして日本語に翻訳しようという苦闘を通じて、逆に日本語を、難しい概念や思想も表現可能であり、「普遍語」に翻訳することも可能なものとして「再創造」していったのである。鴎外や漱石の文章は、そうした苦闘の所産である。

しかし、筆者によれば、そこにはそれを可能にするいくつかの歴史的条件があった。明治以前の段階で、「現地語」としての日本語がそれまでの「普遍語」であった漢文に対して、内容的にも文化的地位の面でも劣らない地位を確立していたこと。幕藩体制や発達した経済のもとで、識字率が向上しただけでなく、多くの書物が商品として流通する「印刷資本主義」が成立していたこと。そしてもう一つの絶対的な条件は、歴史的な幸運から日本が植民地化されずにすんだことである。

もし、日本が植民地となっており、その後独立したとしても、政治や経済や学術の分野で用いられる言語は宗主国のものであったかもしれない。「現地語」としての日本語には、そのような成熟は訪れなかったかもしれないのだ。わたしたちが今このように日本語で考え、論じ、さらにはそれを多国語に翻訳することができるということじたいが、偶然的な歴史の所産なのである。しかし、現在のわたしたちは、ともすれば、そうした経緯を忘れ、昔から日本語が「普遍語」に拮抗しうるものであったかのように錯覚する「遠近法的倒錯」(ニーチェ)に陥りがちである。わたしが日本語によって考え、表現できることは、歴史的条件によって可能となり、同時に制約されているのだという視点は、このような錯覚や、わたしたちが日本語で考え論じるということじたいへの反省・省察を招かざるをえない。そのような視点の重要性を理解できる読者にとっては、思考をうながすよい契機となる本だと思う。


日本文学フェティシズムの愚作  (2009-01-03)

 正直に言って、かなり失望した。一言でいえば、この作家の日本語フェティシズムと日本近代文学を過度に重視した憂国感情のアマルガムで、最後はほとんど絶叫に近い。

 水村は「普遍語」、「国語」、「現地語」の3つを区別し、近代において「普遍語」を翻訳する過程で、国民国家の「国語」が生まれてきた過程を描写する(このこと自体は大筋では常識に近い)。「普遍語」というのはラテン語、ギリシア語、中国語、アラビア語などで、聖典の言葉でもあったものである。近代においては、この「普遍語」の地位を英語・フランス語・ドイツ語の3ヶ国語が占め、ヨーロッパの知識人は各言語を読みながらも、自分は自国語で書く、という習慣を身につけるようになっていくが、それが現在、英語の一人勝ちといった状況になり、しかも、そうした状況は被植民地の人々の英語志向や、インターネットの普及によって、衰える兆しのない勢いで拡大している。水村は、そうしたなかで、「叡智を求める人々」が自国語で読むのをやめ、より多くのすぐれたテクストが収蔵されている(と思われる)英語のアーカイヴ――これはインターネット上の電子化されたテクスト群として実現されつつある――を読むようになるのではないかと論じる。その時、自国語で書かれたすぐれた文学は読まれないものとなり、その国語はたんなる「現地語」になりさがる。日本の場合も基本的な趨勢としてはそうなのだという。

 日本人が現在英語に対してどのような態度をとるべきかという問題は確かに難しい。水村は、

(1)英語を国語にする(日本語をやめる)。
(2)英語を公用語にする(日本人すべてを日本語と英語のバイリンガルにする)。
(3)英語のスペシャリストを少数精鋭で育てる。

という3つの案をあげ、結局(3)をとっている。妥当なところであろう。水村はとくに、日本の外交官や経済人の英語力の低さが日本の国益を損ねているという意見を紹介して、こう言っているのだが、もちろん、しかるべき場においてしかるべく英語で発信できる人材を日本として育成・確保するのはごく穏当な教育方針だからである。

 ただ、返す刀で、日本人はもっと日本語を大事にしなければならない、そして近代文学史上の「奇跡」である日本近代文学――漱石、鴎外、一葉その他――を子どもたちみなに読ませなければならない、そもそも教科書が薄すぎる、まるまるひとつ作品をともかく読みとおさせるべきだ、云々と議論を展開しているところはまったくいただけない。

 これは完全に日本近代文学に対するノスタルジーである。まず現役の作家はこのようなことを言わずにとにかく良い作品を書けばいいのであって、この程度の理論武装の憂国論は端的に滑稽である。

 日本人で高校までの初等中等教育を受ける者が全員、漱石や鴎外を読みこなしている――すくなくとも読みとおせる――というような事態は、おそらく教育を受けた日本人全員が英語を使えるようになるといった事態と同じく実現することはないだろう。確かに漱石は一世を風靡した。漱石は新聞小説を書いていたのであり、その読者は「一般」の読者にまで広く及んだであろう。しかし、それでもそうした現象は当時の日本にあって都市部の小ブルジョア層までにとどまり、戦前日本の就業人口の半数を占めていた農民・漁民が漱石を読んでいたわけではないはずである。漱石が「国民文学」であるといっても、それは日本国民全員が読みこなせる文学であるというわけではないのだ。現代においても、日本人全員が、いかに名作家であるとはいえ、漱石や鴎外を読みこなせるようになる――あるいは、なるべき――などと考えるのはほとんど妄想である。そんなことはありえない。

 水村の国語教育の捉え方はあまりにステレオタイプにすぎる。日本の国語教育はべつに検定国語教科書だけによって行われているわけではない。しかるべき「進学校」と呼ばれている学校では、文庫本などを活用して、それこそ作品をまるごと読ませることが行われている。しかし、そうした教育は一部の優秀な生徒に対してのみ可能だというのが現実であり、すべての中高で可能になることはまちがいなくない。絶対ないことを教育の目的に掲げるのはいたずらに教育効果を減じ、摩擦を引き起こすことにしかなるまい。生徒のレベルに合わせた国語教育が必要なのだ。

 水村はどんな世界になっても広い意味での文学は死なないという。私もそう思う。世の中がどんなに「進歩」し「物質主義化」しても、文学みたいな奇妙なものを弄ぶ人間はある割合で(とても少ないにせよ)必ず生まれるし、その中から優れた書き手も必ず生まれてくる。水村は英語が世界中に広まり、誰もが読める「普遍語」として電子テクスト図書館に蓄積されていくと、「国語」で読むすぐれた人間が減ると危惧するのだが、私はそんなに簡単に事が運ぶのか疑問に思う。

 水村の議論はいろんな意味で偏向しているので論評しにくいが、まず学問の問題を考えるさいに自然科学を結局は排除している点は大きな欠陥だろう(「学問」を語るのに、日本人英文学者漱石を例に出すのは偏向している――今日では日本人外国文学研究者でもちゃんとした人間は外国語で著作している――漱石の時代はもう存在しない――水村は仏文なのにたとえば吉田城先生などを知らないのだろうか)。英語が普遍語として通用する大きな場のひとつとして自然科学を考えないわけにはいかない。自然科学の論文は今日では英語で書くのが当たり前で、そのことによって、研究者間の国際的交流が可能になっている。このことは、ヨーロッパや日本のように学術語を自国語で作らなかったおもに旧植民地の知的エリートたちを英語へと加速度的に向かわせることになるだろう。大学の理系の専門教育が英語でなされるのが普通である日も近いだろう。それでも、フランス人やドイツ人が自分の国の大学で英語で教育するようになるかというと、そこはかなり微妙だと思う。それは日本でもたぶん同様である。なぜなら、自然科学においては100パーセント翻訳が可能だからである。英語で考えようと日本語で考えようと、別のことを考えていることにはならない。とすれば、ある意味では大学に翻訳専門のスタッフが常駐するようなことになれば、自然科学者は英語ができなくても科学できることになる(ノーベル賞の益川センセイのように)。もちろんこれは極論だけど、自然科学において外国語や翻訳の問題はじつは副次的である。だからこそ、もし必要になれば、そのとき英語を猛特訓すればどうにかなってしまう。しかも、自国の初等中等教育を自国語でやる場合、大学から英語にスイッチすることにはかなりの抵抗があるだろう。逆にもし大学が英語で教育するようになれば、当然小学校から理科や社会も含めて英語で教育するようになるだろう。しかし、一部の英語かぶれの親をのぞいて、こういうことを日本人が(あるいはフランス人、ドイツ人が)全員受け入れるようになるとは思えない。

 私は、ヨーロッパや日本の研究者は、自国語で思考し、必要に応じて英語なりなんなりの外国語を用いる――論文を書く、他国の研究者と交流する、発表するなど――ことになるだろうと思う。そのことで、たとえば旧イギリス植民地の研究者の英語力にひけをとるようなことがあったとしても、研究内容で負けるわけではないし、また簡単に自国語を捨てるとも想像できない。すると、ヨーロッパや日本の自然科学者は、自国語にもそれなりの関心を持ち続けることになる。その国の民度が一定以上になれば、当然科学に関する教育を自国語ですることになり、ジャーナリズムなり教科書なり啓蒙書なりをつうじて、自国語で語ることが重要になる。

 また水村の議論で不可解なのは、英語というときには、あらゆるレベルをないまぜにしているのに、日本語が問題になった瞬間に日本近代文学の精華――とくに明治期の文学――が基準となって現われてくることである。ところが、「普遍語」である英語で書かれた小説でも、そのもっとも高い達成を読むのは――たとえばジョイス?――かぎりなく難しい。これは、「普遍語」たる英語を使いこなせる人がかりに全世界に広がっても、そのなかで英語文学の精華を読みこなせる人はあまり多くはないということを意味する(もちろん自然科学の学術論文も同様である)。たんに英語電子テクストのアーカイヴが整備されても、そのなかにある「読むべきもの」を読める人間は決して多数派にはならないということである(多くの人はたとえば『ハリー・ポッター』などを読むのだが、多くの人が読むものが商業原理からして翻訳されるのである)。

 結局、多くの人にとって、言語とは「現地語」である。それは自分の生きていくために必要な度合いに応じて問題になるような言葉にすぎない。誰もが片言でも英語を話すような時代が来るかもしれないが、そういう英語だって必要がなければ忘れてしまうだろう。すると結局、外国語問題とは知識人問題なのである。基本的に自分の生きている狭い領域のなかでやっていけるのであれば、外国語など必要ではない(必要以上に外国語にコンプレクスを持つべきではない)。外の世界に踏み出さざるをえない知識人、経済人、政治家などが外国語を必要とするのであり、しかもそういう人間は国民のうちの総体的少数にすぎないのである。これはどういうことを意味するか。少数エリートが英語にどれほど習熟しようと、彼らは自分の国の「現地語」しかほとんど理解しない人々とどのような関係を結びうるのかを真剣に考えざるをえないということである。それこそ日本のインテリが戦前から悩み続けた問題だが、旧イギリス植民地のエリートも、どれほど英語に堪能であっても、最終的には自分の国の民衆と自分がどうかかわるのかを考えないわけにはいかないということである。その時、「国語」や「現地語」の問題は「普遍語」と同じくらい大きなものとして現われてくるはずである。

 それから「テクスト」の問題について言えば、水村はあまりに日本文学を特権化しすぎている。日本文学史が近代の産物だと述べているのに、いつのまにか1万年前から日本語は地理的条件で守られてきた、などと言ってしまう。彼女が日本語を相対化できていないのは明らかである。西洋文学は翻訳でもよしあしが分かるが、日本文学はほとんど翻訳不可能だというのに至っては、日本語フェティシズム以外の何物でもない。西洋文学が翻訳でもある程度理解できるのは言うまでもなく日本に受容の長い歴史があるからであって、日本文学もこれから百年くらい受容されていけば、翻訳でもよしあしが分かるようになるだろう。

 水村はテクスト――たとえばアリストテレス――は早晩英訳によって読まれるだけになると危機感を持っているのだが、これも受容のレベルを混同した議論だろう。どんなに難しいテクストも、これからも世界が一定の経済レベルを保って余裕を持っていれば、原典で読まれなくなることはない。しかし、多くの人も原典で読むようになるかと言えば、それはもちろん不可能である。多くの人にとってはアリストテレスなど問題にならないし、せいぜい翻訳でよめば十分だろう。知識人でも、誰もすべての言語に習熟することはできないし、また先に述べたように、それぞれの言語を母語とする知識人が不可避的に残存するのであれば、彼らは英訳とならんで、自国語への翻訳をやはり欲するだろう。

 最後に、経済力の問題がまったく看過されているのも気になる。日本が相対的に自立した経済圏を維持しているかぎり、世界中で英語が氾濫しようとも、商品は日本語を伴って日本の消費者に届けられる。それがサービスの基本である。あるいは別の観点から言えば、ホテルや温泉では日本語で――もちろん相手によっては英語でも――接客されるということである。誰もくつろぎに行ってわざわざ良く分からない言葉でサービスを受けたいとは思わない。そういうさまざまな経済圏の独立と交錯がこの本の中には一切描かれていない。

 と、いろいろ問題があるのだが、強調しておきたいのは結局3点である。(1)真の外国語問題は結局エリートの問題である以上、エリートのうちのなにがしかは自国語にも意識的でありつづける。彼らは言語に敏感にならざるをえないからである。その意味で、文化的に日本語が継承されないことはあまり考えられない。(2)「普通」の人にとっては言語は「現地語」にすぎない。彼らに日本近代文学とやらを押し付けるのは余計なおせっかいである。文学はそういう意味での普遍性はもっていない。(3)英語が「普遍語」として世界を制覇しても、そこには高尚なものから軽薄なものまであらゆる情報が包含されていて、即「読まれるべきもの」が英語だけで書かれていることにはならない。エリートが健全な批評意識をもっていれば、彼は他の言語で書かれたものにも当然注意を向けるはずである。

 水村が、西洋には近代文学はない、などというとこの人は本当に仏文を出たのかと思ってしまう。18世紀後半の断絶は、いろんな意味で反省の対象になっているけれど、やはり厳然たる事実である。近代が過去との切断であり、充足した自己像を持てないという意識によって特徴づけられるのは、日本がいささか強すぎるかたちでその意識を強いられたにせよ、ヨーロッパにも存在する意識の形態である。水村は近代日本人が自ら意識したものを無批判に内面化してしまっている。さらに付け加えるなら、漱石の言う日本の開化は「外発的」という近代の捉え方も、今や再考されるときに来ているように思う。この本で江戸時代が看過されているのも特徴的だが、江戸から明治への発展の過程と、そこで西洋が果たした触媒の役割とは、もっと柔軟に考えられなくてはならない。日本がむりやり開国・近代化させられたという議論は、日本は戦争させられたのだという議論と同じくらい、事実の一部のみに依存したものだろう。


村上春樹を語らずに日本文学の滅亡が語れるのか?  (2009-01-03)
英語世界における日本語と日本文学の滅亡と言う、面白くかつ大事な点について語った大切な著書であると思う。
しかし全体の論理の展開と引例が極めて個人的な体験に依るもので非常に偏りがあり、「叡智、叡智」と何度も繰り返す割には、果たしてどれだけの叡智に基づいているのかやや疑問がある。そう言った意味であまり学者色を打ち出そうとせずに、あくまで小説家が自分の作品作りのpremiseとして書いたエッセーだと思って読めば、面白い「洞察」が確かにそこかしこにあるので相反する意見を自分の中で持たずに読めただろう。

例えば著者は少女時代に近代文学のみをアメリカで読んでいたせいか、(サイデンステッカーやキーンによる戦後日本文学の世界への紹介と貢献には触れていたが)戦後日本文学の貢献が大きく抜けている。現代では特に村上春樹が果たした日本文学への貢献に一切触れずに日本文学が滅亡しようとしている、という論を展開するとはどういうことかと危ぶまれる。(他の日本の小説家の皆様はどう思われているのだろう?)それとも村上春樹の場合、英語でもともと書くことから始めた彼の文章は、川端の文章のように、訳しきれない日本文化の真実をあまり含んではいないということだろうか。

例えばNew York Times Book Reviewで、村上文学について、Laura Millerが「読み進めているうちに、何か大切なものが見つかる」と書いた時、あるいは、現在でもロシアの圧政下にある旧ソビエト連邦構成国のどこかの国(忘れたが、グルジアであった可能性さえ大きい)の読者が村上作品について「苦しい時に魂を解放してくれる」と語る時、それこそが言葉を超えたグローバルな何かを、日本文学が達成し得た瞬間なのである。

だから私は水村氏の「ある種の日本文学が「西洋で評価を受けている」などということの無意味さを指摘する人さえいない。」といったような議論に首をかしげずにいられないのである。

余談になるが、ソシュールからデリダへのロゴス中心主義からの解放の流れ―「言語がこれほどに注目され解放された時代がこれまでにあっただろうか」とさえデリダを言わしめたその西洋思想の大事な流れ―に一切触れずに言語を語って良いのだ!ということはむしろ目から鱗であった。(逆にデリダはアジア言語の展開は別物とはずしているのは事実である。)

科学だって英語ですまない  (2009-01-02)
本書のテーマは、「英語が<普遍語>として圧倒的な力を持ってきている状況下で、日本語が<国語>として生き残れるか」である。「英語が重要」であるか「言語の多様性を守れ」であるかの単純な意見の表明が多い中、さすがは、12歳の時に父親の仕事の都合でアメリカにわたり、しかも、中学生の間は毎日日本文学全集を読むことだけが楽しみであった、という著者、現象と問題点を的確に捉えて、意見の違いを越えた論陣を張っている。著者の思いのたけが溢れ出ている文章は迫力があり、一気に読んでしまった。

著者は言語を<普遍語><国語><現地語>という三階層でとらえている。<国語>は<現地語>が国民国家の成立期に国家との相互作用で標準化して作られたものである。しかし、一旦<国語>ができると、各<国語>に対応した文化・文学が成立する。それは、<現地語>では成立し得なかったものである。我々が無意識に使っている<日本語>は<国語>と<現地語>の二つの面を持っており、<普遍語>としての英語の台頭(言語学的には何の必然性がないが、英米の力と、そして、インターネットの普及期に頭一つリードしていた偶然による)の時代に<国語>としての側面が大いなる危機に直面していると著者は認識する。

このインターネット時代では、知的レベルの高い人々は<普遍語>を読むことができるのが当然になってくる。そうすると、マーケットの圧倒的に広い<普遍語>で彼らが表現するようになるのは、これまた当然になってくる。その結果、<国語>での表現はどんどん貧弱になり、文学を支えられなくなる。そして、やがては近代日本文学ですら、その価値を理解する人が少なくなり忘れ去られる。これが、著者の言う、「日本語が亡びるとき」なのだ。もちろん、<現地語>としての日本語は残るだろう。しかし、文化・文学を失った言語なぞにどれだけの価値があろうか。近代日本文学を心の底から愛する著者には、その亡びが耐えられない。危機感を持たない日本人が情けない。その気持ちが、冷徹な分析と論理に裏打ちされて書き綴られている。

私も大学での教育の中で、日々この問題を突きつけられている一人である。著者は、科学はそもそも<普遍語>の世界なのだから、英語で教育をして、英語で発表すれば良いのであり、ことは単純である、と片付けている。ところが、実はそうでもないのだ。科学教育を英語でするとなると、科学にアクセスできる人間が限られる。そうすると、国民全体の科学リテラシーは確実に落ちる。そしてそれは、技術者のレベルを確実に落とすことになる。科学研究ならそれでいいかというと、実は科学は幅広い国民の興味に支えられているので、国民の科学リテラシーが低いと研究のレベルも上がらない。例えば、フィリピンでは科学の高等教育は英語で行なわれているのに研究者のレベルは日本と比べて高いとは言いがたい。わが国が、非欧米で唯一、国内の研究で科学系ノーベル賞受賞者を輩出しているのは、日本語でかなりのレベルまでの科学教育が行なわれているからなのだ。ところが、実際に学生を研究者として育てようとすると、科学教育が日本語で行なわれているハンディキャップは非常に大きく、現場では英語での教育の充実を主張してしまう。まさしく、<普遍語>と<国語>に引き裂かれた自分。著者の文章の中に自分を見、そして強い共感を感じた所以である。

本書では、対策の提案もあるが、それはきわめて難しい問題であり、これが正しい提案であるのか、そもそも対策があるのかすら、私にはよく分からない。それでも、英語が<普遍語>としてインターネットとともに世界を覆うと言うことがどういうことなのかを、説得力を持って描いているだけでも、本書は多くの人々、国語・文学にかかわる人々、英語にかかわらざるを得ない人々、に読まれるべきである。強く推薦します。

Tough love of wisdom 〜 “叡智をもとめる”ことの不合理さ  (2008-12-20)
本書の主題をひとことで言えば、“書きことばとしての〈国語〉のはかなさ(vulnerability)”であるとおもいます。 本書により、〈国語〉とは、特定の政治的、経済的、地理的条件下でのみ、圧倒的な〈普遍語〉(異国の書きことば)の威力に抗して存続可能であり、その存在は、みながおもっているより、はるかにあやうい、とおしえられました。 現在、とくに、internetを介した英語の氾濫によって、いままで〈国語〉の存続をささえてきた諸条件が、急速に崩壊しつつあり、はたして、日本語(いや、もう、世界中のあらゆる〈国語〉)に未来はあるのか? との問いかけが、本書の最大の焦点とおもいます。

本書で展開される、〈国語〉の発生、成長、衰亡についての考察は、評者にとって斬新な視点満載であり、刺激的で、その説得力もかなりのものでした。 また、その考察にもとづき、先の問いへのこたえにせまる著者の姿勢にも、圧倒的な迫力を感じます。 で、そのこたえは? ひとことでは言えませんが、評者は、本書を読んで、“もし、著者の主張がただしければ(評者は、おおむねただしいとおもいます)、現在、世界中でおおくのひとたちが、〈普遍語〉を読み、書き、まなびつづけることで、結果的に、自分たちの〈国語〉を存亡のふちへ追いやっている”、ことを理解しました。 (ひょっとして、あの 〈覇権語〉呼ばわりされる英語でさえ、実は、もう、とうに〈国語〉としては放棄され、全世界に〈普遍語〉のいけにえとしてささげられているのでは? という妄想すら湧いてきました。 ちなみに、native Englishとは、本書でいう〈現地語〉だったのですね。)

問いのこたえに対する、著者自身の立ち位置は、本書のもうひとつの焦点ですが、これは、かなり微妙です。 日本近代文学へのふかいおもいいれのある著者が、みずから出したこたえを、できれば否定したいとおもっているのは明白に読み取れます。 ただ、その一方で、“すべては、人類が、世界規模で「叡智をもとめる」ことの当然の帰結であり、(「叡智をもとめる」ことこそ、人間のもっとも根源的な欲求である以上、)そのこたえは受け入れるしかない”、といった諦観も行間に見えかくれします。 「 叡智をもとめる」とは、ときに、とても不合理で、せつないことであるとさとりました。

日本語という、卑近な存在に、かくも重大な問題がひそんでいたとは、本書を読むまで、夢想だにしませんでした。 評者にとって、まさに、数十年にいちどのtsunamiのごとき衝撃の書であったとおもいます。

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